気が向くままに

ごく平凡な日々の生活をボケ防止の為にタイトル同様気が向くままに書き綴っています。 どうぞ宜しく! 

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第二次世界大戦の思い出。

第二次世界大戦(昭和20年前後)65年前の思い出 その4

 思い出を順不同で気が付くままに綴っています。

 衣食住の中でも母が一番苦労していたのは何と言っても食料でし
した。 家の庭は全部畠になり家族全員で野菜作りに励みました。
勿論小学校の運動場も全部お芋や麦畑です。

 

 当時は「質より量」の時代ですから、ただ空腹を一時的に凌ぐには
「農林一号」や「沖縄100号」 というさつま芋が沢山出回っていまし
た。  大きなお芋で今では家畜の餌にする様な、味も素っ気も無く
大味の酷いものでした。

 

 でも さつま芋は使い道が多く、ご飯に炊き込んだり、ふかし芋、
天ぷら、煮物、乾燥芋、芋かりんとうなど毎日の様に食べていました。
お芋にサッカリンかヅルチンをお砂糖の変わりに耳かきの様な小さな
スプーンで入れてジャムを作った事も懐かしいです。
お芋様々の時代が長がーく続きました。

 

 食塩も薄茶色の岩塩の塊が配給され、各家庭で細かく砕いて
使っていました。

 

 イナゴは佃煮、タニシは酢味噌和えにして誰もが平気で食べて
いましたが、今ではもう無理でしょうね。
何よりのカルシューム源だと無理やりに食べさせられていました。
 イナゴは取るのが面白く、友達とワイワイ言いながら海岸近くの
あぜ道を走り回ったことが懐かしいです。


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 私の父は明治27年生まれの頑固一徹の人でした。
新憲法が出来たら、それに従うと何時も口癖でした。そして
昭和22年5月3日憲法発布の日を境にして、あんなに厳格な父の
姿が一変しました。

 

 昔の厳しさは現在では通じないでしょう、懐かしく思えます。

 

 GHQの改革で日本国全体が封建主義から民主主義国家に政治、
経済、教育(6, 3制)(男女共学)など良い面、悪い面が多少出て来
ましたが戦後の大改革でした。

 

第二次世界大戦の思い出(昭和20年前後) その3

 昭和20年秋頃から復員兵さん達が続々本土への帰国が始まり

ました。 しかし帰って来ても自分の家が焼けて跡形なく、両親、

姉妹も ばらばらに何処で生活しているのやら、又家族が爆撃に

遭って「ただいま」と言っても誰も出迎えて呉れる人もいなく

本当にお毒な方達が大勢でした。


 

 四日市の日永に居た私の従兄弟は戦場で流れ弾に当たって

片足切断したまま家に運ばれた後病院で亡くなりました。

戦地では麻酔薬も無く手術をし、その後の薬も無く相当苦しん

だそうです。 いつも両親はどうしてやる事も出来ないと涙して

いました。


 

 また外地に住んでいた沢山の家族達も引揚船の甲板に鈴なり

になって着のみ着の儘で引き揚げて来ました。ラヂオで引揚者

の名前が毎日ニュースの時間に放送されますので、両親は知人

の名前が呼ばれるかしら、何処の港に着くのかしらと聞き入って

いました。  確か「尋ね人」という時間だったかしら?

当時新聞、ラヂオだけで社会の動きをつかみとっていました。       

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 昭和19年頃から敗戦近くなっても あらゆる物資が急に不足し

だし各家庭の鉄製の物は(お鍋、お釜、鉄瓶、剣、門扉等)どんな

小さな物まで半強制的に供出させられ、それらを外国へ売ったり、

軍需物資に変えたりしていました。

 

 婦人会のお母さん達までも いざという時の為、竹やりを持って

「エイー、ヤァー」と大きな声を出し訓練していました。

 今思えば何と子供じみた事を一生懸命やっていたのだろうと

可笑しくなります。 どう考えても大国アメリカ兵に竹やりではね・・

・・・・・まるで子供の喧嘩です。


 

 その頃あちらこちらで内緒だ、内緒だと言いつつ大変な噂が

飛び交っていました。何処から漏れたのか知りませんが、

「日本は絶対に負ける」との噂です。

 それでも日本政府は絶対に勝つと信じていたそうです。

政府がもう少し早く分かっていれば原爆投下も免れ、被害も

少なく済んだのにと思うと残念でたまりません。

         

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 当時の我々の姿、服装は、

子供から大人まで誰もがモンペ姿、学校へもモンペ、お出かけも 

モンペ、結婚式にもモンペ姿です。大体着物を改造して作ります。

 それに防空頭巾を必ず肩から掛け、空襲警報のサイレンが

なったら もう一つ合切袋といって ほんの少しの食料(乾燥芋、

乾パン、飴など)や三角巾、包帯等の袋を掛け、非難場所に

集合します。 たとえ家族と離れ離れになっても大丈夫な様にね。

 髪の毛は女子はオカッパか後ろ刈上げ、男子は殆んど

くりくり坊主頭で可愛らしいでしたよ。

  

 昔の繊維にはスフ(色んな繊維、混紡)が入っているので大変

弱く、衣類のほころび、特に靴下等は4~5回履けば穴があき

大変だった事を覚えています。

 靴下の修理には誰のアイデアなのか靴下の中に電球を入れ

ついでいました。綺麗に直せましたよ。

何処の家庭でも簡単なものは家で縫ったり直したり、無駄の

無いように物を大切にしていました。

第二次世界大戦(昭和20~22)65年前の思い出 その2

 広島、長崎の原爆投下後 暫らくして昭和20年8月15日の正午

玉音放送がありました。 初めて昭和天皇のお声が流れると云う

事でラジオの周りに家族全員正座して待ちました。

 私は小学4年生でよく理解できませんでしたが、両親の表情から

アッ! これで完全に日本国が負けたのだと察しとりました。


 

 私の兄も大学一年途中で 特攻隊として出陣しておりました。

戦争終結が一週間遅れていたら兄達も外地に向ってお国の為に命

を捧げていたと思います。 

 愛知の津島練兵場から九州練兵場に移動する前に家族に最後の

別れの挨拶に立ち寄っていきましたが、なんと堂々とした態度だろう、

感心するやら、喜んでいいやら、悲しいやら、気持ちは複雑でした。

 その後半年位して 任務を終え元気に帰って来ました。

真っ黒に日焼けして 思い出の鉄兜と飯ごうの二つだけ大事に持って

帰って来ました。


 

 「欲しがりません、勝つまでは・・・」の精神が今でも私の身体に浸み

込んでいますので、65年経った今でも普段の生活に色々と活かして

楽しんでおります。


 

 確か22年頃と思いますが、ララ物資と云うのがあって米軍関係の

宗教団体からの援助を日本は沢山受けていました。

例えば給食の粉ミルク、バター、缶詰、ジャム、衣類等、見るもの

全て横文字で珍しい物ばかり入ってきました。

 

 私の4つ上の姉も女学校から ララ物資の素敵なオーバーコート

とワンピースを貰ってきて 母がミシンで直して着せてくれました。


 一時的にも その援助があったからこそ日本国民に元気が戻った

様に思います。学校給食もこれを機会に始まりました。

でも まだまだ栄養不足の人達が多く、電車、バスの停留所では

体力消耗しない様にしゃがんで待っていました。特に年寄りと子供。

又栄養不足から脚気や鳥目の人も大勢いました。


 

 戦時中 英語禁止になった時 英語辞書を切って家でタバコを巻い

ていました。タバコの葉と巻く小さな道具は町会長さんから届けられ

いつも私が巻く係りでした。

丁度家庭で作る 巻き寿司機に似て、巻き上がると ぽこっと

タバコが飛び出るところがとても面白いでした。

子供にも出来る極く簡単な道具です。


 

 知らぬ内に 物々交換所というのが あちらこちらに出来て皆が

大変重宝していた事も憶えています。 我々みなが戦後必死に

生きようと 自然に出来たお店だと思っています。



 また近鉄の大阪と名古屋間の乗換駅中川辺りで大阪方面からの

衣料品と伊勢方面からの海産物との(セミプロの業者)取引が車内

で始まるのです。 子供の時興味津々で見ていました。

胸から沢山のお金を出し精算が終れば 中川駅から其々逆戻りです。


 

 戦中戦後 何も無くとも国民は真剣に生きていました。

それに比べ今は何不自由なく生活出来ありがたく思いますが最近の

ニュースは悲惨な事ばかり、今も国会中継で相手を攻め立てる事

ばかり、又お目出度い百歳というご高齢者の住所が不明だとか、

最近特に人間関係、絆は全く冷え切ってしまい本当に残念です。

第二次世界大戦(昭和20年)65年前の思い出。

  丁度小学校4年生の夏の一番暑い時でした。段々戦争が酷く
なって来て 毎日の様に日本の何処かで被害を受ける様になって
来ました。

  私が住んでいた伊勢湾に面した静かな津の街も昭和20年3~
7月頃にかけて(大小合わせて10回くらい)集中爆撃を受けました。
というのも近くの大きな軍需工場攻撃の為だったそうです。
(確か其の一つは東洋紡積工場だったかと記憶していますが)

  空襲の主力はB-29で昭和20年7月24日は
約70機で攻めて来て まるで雨あられの様に無差別集中爆弾を
投下され、  28日は同じくB-29 80機で約2500発の焼夷弾
爆撃に遭い、目前に仕掛け花火がぐんぐんと押し寄せてくる来る
感じで、どうして良いやら只ただ あちらこちらと走り回っていまし
た。

  おもに この二回の攻撃で津市の中心部8割が完全に何一つ
残らず焼け野原になり、犠牲者も3000人以上も出てしまいました
幸いにも私の家は焼けないで済みましたが、想像以上に大変な
事態に陥りました。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  其の忘れられない思い出の一つが7月28日の
焼夷弾爆撃の時、近くの結城神社内の八幡さまにある町内合同の
防空壕に入ろうと近所の人達と行きましたが、運悪く壕の入り口
あたりにも焼夷弾が投下され 神社の松の大木がパチパチと派手に
燃え上がり 居られなくなりました。

  防空壕に入って居たらと思うと ぞっとしてしまいます。 

  其の時 誰かが熱くて煙で苦しいから 海へ逃げようと言い出し
私達も後を追って 家で夏掛けやタオルケットを水に濡らして頭から
被り家の裏の阿漕海岸まで走って逃げました。

  そこで ほっとする間も無く 砂浜にも又焼夷弾が投下され、
暫らく海の中で首までつかり身体を冷やしていましたが、あたり一面 
火の海状態になり、母が此の儘だと命が危ない、どうせ水に流され
て死ぬんだったら 家の防空壕で家族一緒に死んだほうが誰か
探しに来てくれた時に わかってくれるだろうと 煙にまかれながら
家に戻る事にしました。

  他に艦載機の銃撃にも学校の帰り二度ほど遭いました。
私はよその庭先にたまたまお大根が高く干してあったので其の中に
逃げ込み銃声が遠のくまで じっと身を潜めていました。

  焼夷弾や爆弾の時は 誰もが両手で目と耳をふさぎ所構わず
うつ伏せになって収まるのを待ちました。

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  当時の食料事情について。

  今の若い方達には想像も出来ないくらいの物をこれが普通だと
思い誰もが美味しく食べていました。
来る日も、来る日も代用食続きです。

  白米のご飯は何かあった時だけで、普段はさつま芋、南瓜、水団、
雑炊など、ご飯と言えば8割り位の麦の中にパラパラと白米や乾麺が
入ってる真っ黒いご飯でした。

  こういった食糧難でお昼は其々家に食べに帰っていました。

  ある時小学校の校長室を覗いたら校長先生がビンから重湯か
ゆるいお粥か白いものを美味しそうに 一口また一口とゆっくり
噛むように飲んで見える姿を見て、私は未だ固形物がたべられて
本当に幸せだとつくづく感じて下りました。

  思い出せば切がありませんが、65年前の事を少し書いて
見ました。

  

  

  

 
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